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自称元陸自元自衛隊員泥憲和氏経歴の嘘疑惑と暴力集団しばき隊や男組所属問題の正体とTwitter発言や集団的自衛権について検証するブログ・保守派の論客
最後に、まとめをしておこう。
2-1では、糸川英夫氏の推薦文と共に小室直樹の天才ぶりを紹介した。
2-2では、国際政治に関する著作を紹介し、戦争及び国際法を考える上で有用なことを示した。
2-3では、至高の名著の一つ憲法原論を紹介し、盛んになっている憲法論議への
土台を提供してくれることを示した。
2-4~は、山本七平の発見した日本教を分析した著作を紹介した。
日本人の行動原理、つまり日本教は、昔も今も変わっていないことを示し、
現在でも通用することを示した。
2-9~は、小室直樹による韓非子の現代的位置づけを紹介し、腐朽した官僚制の分析に役立つこと
を示した。
さて、こうした小室直樹の著作で一貫していることは何だろうか?
それは、「社会に存在する法則を、構造機能分析を用いて分析する」ということである。
「社会には法則がある」という大発見をしたのは、マルクス先生。
それを人間疎外(Entfremdung)という言葉を使って表現した。
マルクスも継承する小室直樹は、その法則を分析しようとした。
それには、種々の方法があるが、小室直樹は社会学で研究された、
構造機能分析(structual-functional analysis)を使った。
構造機能分析とは、社会を一つのシステムだと考えて、そのシステムの制御や、
要請された機能を達成するために必要となるシステム内部の構造変動を分析する手法。
当時の社会学では、最先端の手法だった。
小室直樹は、この手法を使って、例えば、ソ連の崩壊を予言した。
ソ連崩壊を分析した論理は、以下の通り。
社会には法則があるのだから、過去と現在の状況を参照すれば(あるいは現在の状況だけでも)、
その法則に従って、未来を予測することができる。
そこでソ連を見てみると、ソ連の社会には要請されている機能があるけれども、それを達成できない
でいる。
それだけでなく、社会を統合する機能も失われてしまった。
そうしたら、わざわざ社会を構成する必要が無いため、崩壊するに決まっている。(社会構造の変
動)
これが構造機能分析による社会法則の分析。
喩えるとこうなる。
地球上で、日常的な物体を持ち上げて、そのまま手を離せば、落下する。
そして、落下の位置も予測できる。それは、重力という自然法則があるから。
これと同様に、ソ連社会に存在する法則を分析し、その行く末を予測したというわけ。
かようにして、小室直樹は、真に社会科学の王道を歩んでいた。
社会科学者の主張は、「社会には法則があり、それは分析できるのだ」ということ。
そして、その研究結果は、より良い社会を作るためにある、という認識がある。
社会法則を知らなければ、まともな改革・制度設計はできないのだ。
ベーコン先生の考えを使って言うと、"scientia est potentia."(知は力なり)
それ故、社会科学は、近代社会を営む欧米では、大変に重要視されている。
他方の日本は、前近代社会、中世国家なので、社会科学は軽んじられている。
社会を作り変えよう、という作為の契機を欠いているから、社会科学は必要無いのだ。
「俺たちゃ、俺たちの気分で好きにやるんだよ」と。
この点、そこらの暴走族となんら変わるところはない。
小室直樹が日本社会から排除されたのも、またむべなるかな。
しかし、そろそろ見直すべき時だろう。
小室直樹の著作の多くには、ソ連崩壊の予言同様、種々の予言がなされている。
それは、社会法則に従ったモデルを作り、そこから得られた論理的な帰結である。
ただのヤマ感とは違う。
そこには、膨大な資源が投入されており、高度の論理が貫徹している。
それ故、用いられているデータや挙げられている事例は古くなっていたりするけれども、
その論理構造や部分的な理論は今でも通用する部分が多い。
これを活用しない手はない。しかも、日本人向けに書かれているのだ。
小室直樹の著作を読んで、その遺産を十分に活かそうではないか。
急げや、急げ。
"Dum loquor, hora fugit."(こうして話している間にも、時間は過ぎ去ってゆく)
それと、どうやら今月末に、小室直樹に関する本が出るようだ。
「小室直樹の世界―社会科学の復興をめざして」
副題の通り、社会科学を復興できたら、いずれ政治音痴も解消し、
日本は「普通の国」に向けて大きな一歩を踏み出すことができるだろう。
自称元陸自元自衛隊員泥憲和氏経歴の嘘疑惑と暴力集団しばき隊や男組所属問題の正体とTwitter発言や集団的自衛権について検証するブログ古き良き思想家
小室直樹 日本教講義 投稿者 chohsuke
前回は、軽く「日本教」の意義に触れたので、今回は「日本教の社会学」の内容を。
興味があれば、上の動画もご覧になると良いと思います。
日本教徒の特徴などが、よく分かります。(人間中心主義、無規範など)
さて、「日本教の社会学」の本編。
本書は、三部構成である。
第Ⅰ部は、日本社会の戦前、戦後。
第Ⅱ部は、神学としての日本教。
第Ⅲ部は、現代日本社会の成立と日本教の倫理。
という構成。
今回は、第Ⅰ部に焦点を当てよう。
第Ⅰ部は、戦後の日本は民主主義ではなく、戦前の日本は軍国主義ではない、
という、今や広く知られるようになったことの分析。
日本では、デモクラシーや自由をはきちがえられたり、言論が魔術(Magie)の園から解放されていな
い、など。
およそ30年前の著作であるが、今でも通用するから面白い。
挙げられている事例は当然古くなっているが、その論理は通用する。
例えば、こんなのはどうだろうか。
「近頃の人は、権利ばかり主張して義務をぜんぜん行わない。」
今でもこんなことを言う人はいるのではないか。
そういえば、どこかの政権与党の憲法草案者にいたっけ。
でも、これ、明らかにおかしい。
こう言ってあげるといい。
権利は主張できるからこそ権利であって、主張できない権利など論理矛盾です、と。
持っているけど、使えない権力みたいなもの。意味不明。
もう一つくらい例を挙げてみよう。
日本では、言論が科学的ではない。
言論が科学的であるとは、自分の意見が仮説(hypothesis)の一つである、と明確に意識すること。
これがないと、議論の積み上げなどできない。
ところが、「正論」なんて言葉、今でも使っている人がいるだろう。
ある問題に関して「正論」と言ったら、そこで議論がお終いになってしまう。
他は全て排除。実際は、その一意性(uniqueness)が証明されたわけでもないのに。
まともな科学者なら、こんな言葉はまず使わない。
言論が科学的でないことの一例。
これと同じようなことは、約150年前のミルの「自由論」の中に書いてある。(第2章参照)
由是観之(これによりてこれをみれば)、
日本は民主主義どころか自由主義にすら到達していないことがわかる。
また、日本ではジョークが重要な意味を持っていない、
ということが、その重大な兆候として挙げられている。
私も仮説、あなたも仮説。どっちも所詮は仮説。
そんなに真剣にならないようにしよう、という宣言がジョーク。
これが無いということは、言論が科学的でないことの証し。
筆者は、その昔、ジョーカーの意味など、この本を読んで初めて知った。
なるほど~、と感銘を受けた記憶がある。
また、戦前の日本は軍国主義ではなかった、という分析をしている。
「天皇絶対」と叫びながら、天皇の言うことを一切聞かない右翼と軍隊など。
日本人の無規範性を赤裸々に暴く。
戦前の陸軍がその良い例。
陸軍が最も占領していたがったのは日本国である、ということが挙げられている。
まあ、何とも無茶苦茶な話である。
国家に属するはずの陸軍が、反対に国家を占領しようというのだから。
まさしく革命。クーデターではないか。
がしかし、当人達は、一向にそんなことを気にしない。
この点、北条義時、泰時親子と同様。
これが日本教徒。
陸軍に関するこの分析は、現在の状況に、そのまま横滑りさせることはできない。
しかし、多少の社会学的な分析を加えると、その特徴が現在の組織にも継承されていることが判明
する(*)。
小室直樹と山本七平は、これらのことを俎上(そじょう)に乗せて本論に入っていく。