さて、泥憲和尊師は、61歳、昭和29年か昭和30年生まれ、はっきり言いましょう、若造。

私の父親は、昭和一桁もう80歳とっくに過ぎています、私の母親は70歳もそろそろ80歳近く。

戦争体験者なんですよ、団塊の世代の若造の泥憲和尊師の僕の考えた戦争。

爆笑ものです、父は近畿の人、本家は奈良です、戦時中は本家の奈良の田舎に疎開していましたが。

阪神大空襲で、夜でも昼間のように明るく凄まじい、劫火をおぼ得ています。

母は江戸っ子でしたが、親族を頼って栃木かどこかに疎開していましたが、父と同じく東京大空襲の劫火を、微かに、覚えています、真夜中に昼間のように、明るく焼き尽くされた都市、泥憲和尊師は知らんでしょう?

で父は色々あって、滋賀県に戻ったんですが、当時琵琶湖には、水上機の基地があったので、ついでにB-29が爆撃しに来た時、直援機に追われて、逃げたそうです、憎きムスタングですかね、琵琶湖には葦が生えていますから、慌てて逃げ込んで事なきを得た、じゃなければ私は生まれていません。

母は直接、襲撃されてはいませんが、戦時中の飢餓体験を昔は良く聞きました、農林〇号とかいう、サツマイモがまずかったり、親族を頼って疎開した先の、旅館で卵が出たのがものすごくうれしかったそうです。

泥憲和尊師は、もう食糧難も終わり、焼け跡も闇市も知らない世代、でたらめな、継ぎはぎ話で僕の考えた戦争、噴飯ものです。

前に書きましたが、私は父方も母方も祖父を知りません、そのためか、おじいちゃんはどんな人だったのか、父にも、母にも、長生きした両方の祖母によく聞きました。

父方の祖母は、明治生まれ、戦争というと、なんと日露戦争が先に出ました、ちなみに父方の祖父は、徴用で常磐炭鉱で石炭掘っていたそうです、昔実家に、父が祖父に送った葉書がありましたよ。

母方の祖父は、役人で徴兵されたが、すぐに徴兵解除だそうです、ただ他の家族は疎開していましたが、祖父は、疎開せず、東京で仕事をしていたそうです、「壕から出る人、入る人」って知っていますか?

民間人は、空襲があれば、防空壕に入ります、しかし要撃戦闘機乗りや、高射砲部隊、また役人は様々な理由で、防空壕から出て配置につかねばなりません。

もし、祖父が亡くなっていたら、私生まれていませんね、運のいい人だったようですが、癌で60代で亡くなりました。

母方の祖母も、知らない祖父も江戸っ子でしたが、祖母は山の手、祖父は下町です、江戸言葉って、山の手と下町で違うんですが、である日祖母が、「あたしの家(祖父の家)は、ごいっしん、(明治維新)前は、どこかで百姓していたと言われて、いや時代とは、続くものだなと思いながら、ちょっと戸惑いましたよ。

ごいっしん後、に日本橋で金物問屋の倅だったそうです、まあ色々あったのですが、秘密にしておきます。

あと、私の父方の曽祖父は、直接の血縁ではないそうです、ただ日露戦争に従軍し、一兵卒からたたき上げの軍曹になった人だとか、前に書きましたかね?

出征前に、撮った写真が残っています、当時は写真は写真館で撮るもの、見て分かりました、遺影のつもりだったと、当時のロシア帝国に日本が勝てるかなぞ誰もわからない、しかし祖国が滅びるより、闘いに挑む、明治の人の気概は、相当なものです。

しかし、泥憲和尊師は、父親は泣く子も黙る憲兵、軍人恩給もらって、戦友会の役員、良く呑気に嘘がつけますね、当時弾圧した国民に、泥憲和尊師は、謝罪しましたか?

それどころか、僕の考えた戦争で説教しやがる、黙れ人間のクズ、お前の父親は、戦犯だろうが!!!!!!!!!!!!!!!!

謝罪もせずに、偉そうに説教して嘘つく、泥憲和尊師は、最低の人間ですね、早く日本から出て行ってください、そして、朝鮮半島や大陸で、謝罪行脚しなさい!!!!!!!!!!

では、そういえば、沖縄の県外の基地外テロリスト集団を、庇っていましたが、では泥憲和尊師の家の前に、路上駐車何台もして、ニッパーで門やフェンス切っても怒る言われはありませんね。

大体、某党のプロパガンダ工作員なのに、一般人の振り、悪質ですね。

あと、軍事音痴なのに、でたらめ振りまいても、馬鹿は騙せても、私は騙せません。