事実が歪められた「創氏改名」

事実が歪められた「創氏改名」

麻生発言の何が問題なのか?


 

 麻生太郎自民党政調会長の「創氏改名」に関する発言が問題となった。まず朝日など国内マスコミがこの発言を問題視する報道を行い、これを受けて韓国マスコミが非難するという、いつもの「日本発日韓歴史摩擦」のパターンを踏襲しかけたのだが、麻生氏が発言を撤回しないまま陳謝だけして、外交問題化はしないまま一応終息した。

 しかし、この報道を巡っては明らかな事実関係の歪曲があり、外交問題とならなかったとは言え、かつての「妄言」騒動と問題の構造は変わらない。

 

◆何が問題なのか

 まず、麻生発言とはどういうものだったのか。報道されているものから引用してみよう。発言そのものは、五月末に行われた東京大学の学園祭での講演の際に、質問に答えたもので、「中国や韓国と外交をするうえで、歴史問題をどうすればいいと思うか」という質問に対して、麻生氏はこう答えたという(朝日新聞2003年6月2日)。

《歴史認識を一緒にしようといっても、隣の国と一緒になるわけがない。たとえば朝鮮人の創氏改名の話。日本が満州国をやる前に創氏改名の話が出たことは一回もない。しかし、当時、朝鮮の人たちが日本のパスポートをもらうと、名前のところにキンとかアンとか書いてあり、「朝鮮人だな」と言われた。仕事がしにくかった。だから名字をくれ、といったのがそもそもの始まりだ。これを韓国でやりあったら灰皿が飛んできた。そのときに「若い者じゃ話にならない、年寄りを呼んでこい」と言ったら、おじいさんが現れて「あなたのおっしゃる通りです」と。ついでに「ハングル文字は日本人が教えた。うちは平仮名を開発したが、おたくらにそういう言葉はないのか、と言ってハングル文字が出てきた」と言ったら、もっとすごい騒ぎになった。その時もそのおじいさんが「よく勉強しておられる。あなたのおっしゃる通りです」と言って、その場は収まった。やっぱり、きちんと正しいことは歴史的事実として述べた方がいい。》

 つまり、「創氏改名」について麻生氏が指摘しているのは、日本名を名乗らせてほしいという要望があり、それが「創氏改名」制度の一つの切っ掛けとなったということである。この発言の一体どこが問題なのだろうか。

 戦前、朝鮮半島だけでなく支那大陸、とりわけ満洲・華北に多数の朝鮮人が住み、半島の出身地と往来していた(その数は、終戦時で約二百万と言われている)。彼らの多くは通名として日本名を名乗り、とくに昭和十二年の支那事変以降は法律上も「内地人式の氏」を認めて欲しいという要望があったことは事実である。むろん、「創氏改名」が行われた理由はこれだけではないが、制度創設のひとつの切っ掛けであったことは確かで、麻生氏の発言それ自体は間違いではない。

 では、一体この発言の何が問題なのだろうか。民団(在日本大韓民国民団)の抗議文は「韓国人の姓を日本式の『氏』に強制的に改めさせた『創氏改名』について、『当時、朝鮮の人たちが名字をくれと言ったのが始まりだ』と発言した」と批判している。また、韓国外交通商省スポークスマンも、同趣旨の発言をしている。つまり、「創氏改名」とは強制されたものであり、それを朝鮮人自らが望んだような発言は、まさに「妄言」だというわけである。

 

◆「姓」は存続している

 「創氏改名」は、強制的に韓国人の姓名を日本式に変えさせたものと受け取られている。韓国の高校歴史教科書は「日帝は韓国人の姓名を変え、日本式の姓と名を使うよう強要した」と記述しているし、韓国では「姓を奪った」という言い方もされる。

 日本の現在の歴史教科書も、例えば「日本式の姓名を名のる『創氏改名』を強制し」(中学社会科・大阪書籍)とか「固有の姓名を日本式に変えさせられた」(同・日本文教出版)と書いている。また、麻生発言を報じた朝日新聞は、その記事にこういう解説を加えている。

 「創氏改名 日本が朝鮮半島を植民地にしていた一九三九年十一月、朝鮮総督府が朝鮮民事令改正で公布。翌年二月に施行した。『皇民化政策』の一環で朝鮮姓を廃して日本式の姓に改めさせた」

 しかし、ここには明らかに事実誤認というより、「創氏改名」に関する事実の歪曲がある。

 「創氏改名」は、朝鮮総督府が昭和十四年十一月に公布した朝鮮民事令改正と「朝鮮人の氏名に関する件」という制令によって、翌十五年二月から実施された。

 「創氏」とは文字通り新たに「氏」を設けるということである。日本人は「氏(名字)」と名によって名前が出来ているが、朝鮮人は「姓」と名によって名前が作られている。われわれ日本人は日常的に「氏」も「姓」も同じ意味で使っているし、(例えば、「夫婦同姓」は、法律的には「夫婦同氏」である)。一方の韓国人も金氏というように「姓」に氏をつけて、混同しているものだから、さらに混乱してしまうのだが、「姓」と「氏」はまったく違う。

 どう違うのかと言えば、佐藤や田中といった「氏」は一つの家族の呼称であるのに対して、金、朴、李という朝鮮人の「姓」は祖先祭祀を中心とした男系の血族集団の呼称である。

 「氏」は、結婚や養子縁組によって変化するのに対して、朝鮮の「姓」は変わらない。朝鮮の伝統的な家族制度では、「姓不可変」(姓は一生変わらない)「同姓不娶」(同族の者同士は結婚できない)「異姓不養」(同族でない者は養子にしない)が鉄則とされるが、ここでいう「姓」はまさに男系血族としての「姓」である。

 さらに、この「姓」に金海や安東といった本貫という先祖の発祥地名を加えて、同姓のなかでも他の集団と区別する。つまり、朝鮮人の名前の構造は、金海(本貫)+金(姓)+○○(名)となり、金海(本貫)+金(姓)が一族の呼称であり、このうち金(姓)+○○(名)が個人の呼称となるという(『創氏改名』所載の金英達「創氏改名の制度」)

 つまり、朝鮮には一族の呼称があるだけで家族の呼称はなかった。そこに朝鮮伝統の「姓」とは違うものとして、新たに家族の呼称である「氏」を創設したのが「創氏」なのである。

 事実、朝鮮総督府は、「姓」はなくなるのか、変更されるのかという質問に対して、「『姓』が消滅するとか、『改姓』になるというのは、とんでもない誤解だ。従来、家に称号がなかったから、今度新たにその称号を付けるということになっただけで、姓には何の影響もない」(『総力戦』昭和十四年十二月号)と説明している。また、実際の戸籍簿も、固有の「姓」は新たに作られた「姓及び本貫」欄へ移記されている(この戸籍簿が、「氏」を廃止した戦後も使用されていることからも、創氏が「姓」を変えるものでないことは明らかである)。

 

◆「姓を奪った」は事実の歪曲

 このように、「創氏改名」とは、朝鮮には従来なかった「氏」を制度として創設するものであった。従って、「氏」の設定は法令上の義務、いわば強制であった。昭和十五年二月から六カ月の期間を定めて、「氏設定届」を出させ、この届け出をしないものは「姓」をそのまま「氏」とした(法定創氏という)。「従来の金や李をそのまま氏としたいものは届出をしないで放って置けばよい」(総督府法務局『氏制度の解説』昭和十五年二月)というものであった。

 「改名」の方はどうかというと、これはまったく義務でもなく(むろん奨励はされたが)完全な申請制であり、裁判所に申請して許可を受けなければならなかったし、「氏設定届」が無料であったのに対して、「名変更許可申請」には一人五十銭の印紙代(途中から一戸五十銭に変更)が必要だった。

 つまり、法制度から言えば、「氏」を新たに創設することは義務であったが、それは「改姓」でもなく「廃姓」でもなく、「姓」はそのまま存続した。また、「改名」は完全に自由であった。

 実際、自ら「氏設定届」を出したものは全戸数の約八割で、残り二割は届を出さず、姓がそのまま「氏」となった。ちなみに「名変更」の許可件数は約百八十八万人で、当時の人口を約二千五百万と考えれば一割にも満たない。

 その意味で、民団が言う「韓国人の姓を日本式の『氏』に強制的に改めさせた」とか、朝日が書く「朝鮮姓を廃して日本式の姓に改めさせた」というは批判は、事実を歪曲した批判なのである。

 

◆一族こぞって「創氏」

 むろん、新たに「氏」を設定した人たちのほとんどは日本式の「氏」を設定している。この事実を捉えて、全世帯の八割が日本式の「氏」を設定したのは総督府の強制によるものであるとする主張がある。

 例えば、日本式の「氏」を設定しない者の子女は、学校での入学・進学を拒否するとか、総督府機関に採用しないとか、その他の諸届を受け付けないなどと言って日本式の「氏」を強制したというのである(文定昌『軍国日本朝鮮強占三十六年・下』)。制度としては強制ではなかったが、実態としてはそうした「強制」があり、だから「姓名」を命より重要視する朝鮮民族が全戸数の八割も日本人式の「氏」を設定したのだというわけである。

 しかし、『高等外事月報』などによると、当時からそうした流言が広まっていたらしいが、実はそれが事実かどうかは未だに不明である。朝鮮史研究者の宮田節子氏は「有形無形の強制」があったとするが、実際にはそうした「強制」は「資料的に確かめられなかった」と述べている。つまり、いわゆる慰安婦問題のケースと同様に、証言はあるが資料は存在しないのである。

 逆に、例えば終戦時の道知事のなかには三名も「姓」をそのまま「氏」とした知事がいるし、軍人のなかにも洪思翊中将の例もある。さらに、三・一独立宣言の起草者の一人であった作家・李光洙のように自ら積極的に創氏改名した人もいたことは紛れもない事実である。

 総督府が、「内鮮一体」(皇民化)政策の一環としてこの「創氏改名」を実施し、さらに「氏」を日本人式に設定することを積極的に奨励したことも事実である。その結果、末端の邑・面の行政機関が「自己の皇民化行政の成績を誇示する手段」と捉え、無理をして日本人式「氏」の設定を推進したことも考え得る。

 しかし、それが仮に事実であったとしても、むしろ個別のケースというべきであろう。というのも、「氏」創設の八割という数字は、実は同本同姓の一族がまとまって「創氏」するという、いわば創氏制度への団体加入を抜きには語れないからである。

 昭和十五年当時の『京城日報』には、「柳姓が一斉に創氏」「一万戸が蕫河本﨟姓」「全鮮八万の同姓に―蕫梁川﨟創氏の檄」という記事が出ている(『創氏改名』による)。他にも、金海を本貫とする金姓のある「派」は、全員が金海を「氏」とするといったように本貫をそのまま「氏」としたり、光山金姓のものは全員が金光とするといったように本貫に由来する「氏」を設定するなど、その本貫(正確には本貫のなかでさらに別れた「派」)が全員まとまって「創氏」したケースが圧倒的なのである。八割の「氏」設定を支えたのは、まさにこの一族こぞっての「創氏」だったと言える。

 つまり、個別のケースでは末端の行政当局の何らかの強要があり得たとしても、それはとても大勢とは言えない。やはり、創氏改名は、制度としてもまた実態としても強制とは言えない。

 

◆「強制」論の屈折した背景

 むしろ、この八割という数字は、当時の時代背景と深く関わっていたと言うべきである。昭和十二年七月に始まった支那事変以降、日本の支那大陸での勝利に朝鮮は沸き立っていた。北支に出動する日本軍を歓送迎する人々が、京城(ソウル)駅では昭和十二年九月だけで実に四十三万人も詰めかけた。むろん、その多くは朝鮮人である。

 日本軍人の無事を祈願する千人針が流行したり、自主的な国防献金も始まった。一般民衆だけでなく、民族主義者までが戦争遂行に協力し始めたのもこの頃である。その象徴が十三年に始まった志願兵制度で、創氏改名が実施された昭和十五年に三千の定員に八万四千人が志願した。

 少なくとも、当時の朝鮮には、積極的であれ消極的であれ、日本の戦争遂行や統治に対する「協力」があったと見るべきであろう。少なくとも、独立などは考えられない状況であり(誰もその五年後に敗戦によって日本による統治が終了するなどと想像できなかったことはいうまでもない)、創氏改名についても「創氏改名に協力することによって、日本帝国のなかで地位を上げていこうという選択があった」(前出・宮田節子)と言うべきなのである。だからこそ、八割もの人たちが「氏」を設定したのであって、「強制」だから八割もの人たちが「氏」を設定したというのは、事実関係だけでなく、こうした背景を考えても無理があると言うべきだろう。

 では、なぜ「協力」が「強制」という正反対に理解されているのか。その辺りの事情を黒田勝弘氏は著書『韓国人の歴史観』のなかでこう解説している。

 黒田氏は、韓国の教科書で「日本支配に関し一九四〇年代が一種の空白になっている」ことをあげ、「抵抗史観」で書かれている韓国の教科書では「この時期には目ぼしい抵抗の歴史が見当たらない」からだとしつつ、しかし、「大きな理由」は、「この時代こそ韓国人の日本に対する『協力』が最も進んだ時代であり、『韓国の歴史』としては本当は思い出したくも触れたくもない時期だったからである。教科書もいうように、この時代はまさに韓国人を日本人にしようとした時代であり、実際に韓国人の多くが日本人になりつつあった」と指摘している。

 しかし、「韓国の歴史教科書には日本に対する『協力』の文字はいっさい登場しない。国定史観としての『抵抗史観』からすれば当然である。日本支配時代は『韓国人の歴史』としては抵抗あるのみであって、協力などあってはならない。あったとしても、それは見たくないし、しかもその協力はすべて強制によるものでなければならないのである」

 つまり、「協力」が「強制」に変化したのは、実態が「強制」であったというより、民族全体としては「協力などあってはならない」とする戦後の「抵抗史観」のなせる業だというのである。換言すれば、「反日」が国是となった観のある戦後の韓国では、公式には「創氏改名」は「強制」だったと語られねばならなくなったと言える。金大中・前韓国大統領が、木浦商業時代の恩師に再会した際、「先生、豊田です」と挨拶したことすら問題となった。

 しかし、それは韓国の、いわば屈折した論理であって、日本がそれに付き合う必要はない。その意味でまさに、麻生氏が言うように「やっぱり、きちんと正しいことは歴史的事実として述べた方がいい」し、「歴史認識を一緒にしようといっても、隣の国と一緒になるわけがない」のである。(『明日への選択』編集長 岡田邦宏)

〈初出・『明日への選択』平成15年7月号〉


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創氏改名って名前を奪ったんじゃないぐらい、馬鹿でも知っています。

相変わらず、「僕の考えた大日本帝国朝鮮」「無知」「無学」「無教養」なら黙ったら?

まあ泥憲和先生は61歳、60歳が還暦、じゃあいま一歳児ですね(笑)