続き
今回は、国内に焦点を当ててみよう。
読むべき本が多々あり、悩んだのだが、「日本人のための憲法原論」。
これが良いと思う。動画の中で、橋爪先生も薦めておられる。
最低でも10回くらいは読みたい著作だ。
憲法論議が盛んになっている現在、これほど適切な書物は他に中々見当たらない。
「憲法とは一体何なのか?」
原理原則に遡り、本質的な部分だけを切り出して分析する、小室先生の真骨頂を見られるだろう。
小室先生の晩年の著作は、格調高い文章になっているので、
読んでいて清々しいのも特徴的だ。
個人的には、80年代の剛胆無比で蛮勇な著作も好きだが。
さて、著作の紹介に入ろう。
講義形式で進められており、大変分かりやすいのはもちろんのこと。
思わずドキッとするような質問を投げかけて来られたりして、
小室先生と対話をしているかのような臨場感を味わうことができる。
巷(ちまた)に溢れる憲法学の本なんかとは、雲泥の差である。
本書は歴史的な構成をとっている。。
それは、憲法が歴史的な所産だからだ。
憲法は、ある日、ある時、突如として現れたのではなく、長い時間をかけて、
諸々の現象が複雑に絡み合う中で生まれたきたもの。
だから、その本質を知ろうと思ったら、歴史を遡らなくてはならない。
憲法とはこういうものである、と分析的に定義を下すことはできるが、
それを知るだけでは、何も分かったことにはならないのが憲法。
その背後にある、情勢や悲劇、希望、欲望など、そうしたものも同時に知らなければならないのだ。
類比を使って、書くとこうなる。
「日本人とは何か?」という問いに対して、「日本国籍を持っている人だ」と答えるのは簡単。
あるいは、「日本語を話す人だ」と答えるかもしれない。
でも、それでは何も分かったことにはならないのは明らかだろう。
日本人の本質を知ろうと思えば、やっぱり歴史を遡って行くしかない。
本書を通じて一貫した考え方は、憲法は生き物である、ということ。
憲法は生きているのか、死んでいるのか。
憲法の条文にどんな立派なことが書いてあったとしても、それが慣習として定着していなければ、
憲法は無いのと同じ。憲法は死んでいるということ。
この判定こそ、本書のアルファでありオメガであり、憲法学の最も根幹の部分である。
そして、生徒の「日本の憲法は死んでいるのか」という問いに対して、
小室先生は、日本の憲法は死んでいる、と断言する。
また、日本は、民主主義でも、資本主義でもなく、日本に憲法は無い。
日本のご臨終も間近であると言う。
では、日本の憲法、民主主義を蘇らせるには、どうすればいいのか?
小室先生は答える。
「現実を直視しなさい」と。
最後に、丸山眞男の言葉で締めくくる。
「民主主義をめざしての日々の努力の中に、初めて民主主義は見出される」。
以上が、本書の大まかな内容である。
日本は、民主主義であり資本主義である、なんてことは、小中学校の教科書の中だけのこと。
今や常識となりつつある。
議会もある、成文憲法もある、選挙もやっている。
でも、民主主義ではない。
これらがあるだけでは、民主主義ではない。
エジプトやベネズエラなんかにもあるが、まさかこれらの国々を民主主義だという人はいないだろう。
日本も同様で、民主主義に必要な部品はいくつか存在するが、
根本的なものがいくつも欠けている(*)。
民主主義である、ということと、かなり民主主義に見えるということの間には、大きな壁がある。
これらの2つは、全く異なったものなのだ。
毫釐(ごうり)の差は千里の謬(あやま)りの一例。
カール・シュミットの言う中性国家(neutraler Staat)なんて、夢のまた夢。
そんなのは妄想の領域に近い。
中世国家としてなら、実現しているのだが。
民主主義どころか、それよりずっと手前、自由主義の段階にすら達していない。
安倍首相を筆頭とする、超国家主義者(2-4参照)が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)しているのを見れば明らか。
不支持率が7割か8割くらいでもおかしくないと思うが、現実は全く逆だった。
何とも不思議な光景である。普通の民主主義諸国ではありえないことだろう。
憲法を蘇らせるには、まずは、この現実を認識することから出発するしかないのだ。
そのためにも、小室直樹博士の著作を読み返そう。
博く之れを学び、審(つまび)らかに之れを問い、慎んで之れを思い、
明らかに之れを弁じ、篤く之れを行う (「中庸」第20章)。
因みに、本書の姉妹編「憲法とは国家権力への国民からの命令である」が7月に再刊になった。
本書は、「憲法原論」だが、姉妹編は「日本国憲法」に絞ってある。
より現実に近い内容。
こちらも参照するのが良いだろう。
訂正
加筆修正しました