「 明治5年、できたばかりの維新政府は、吉原の花魁のことを、 
  「牛馬に異ならず」と評しました。 
  明治5年『芸娼妓解放令』に合わせて出された「司法省達」です。
  原文を末尾に資料として転載しておきます。
  現代語になおせば、つぎのように書かれていました。

  「娼妓・芸妓は人身の権利をなくした者であって、牛馬と同じことである。」

  当時は奴隷という用語がまだない時代ですが、 
  「牛馬に異ならず」という表現が、奴隷状態であるという認識を示しています。」

 「当時は奴隷という用語がまだない時代ですが」真っ先に間違えている、知らないで書いたのなら「知ったかぶりはやめた方がよいですよ?泥憲和先生」
「もし、知っていて書いたのなら、捏造とかでっち上げです」
証拠を提示します。

英和対訳袖珍辞書

、堀達之助が編纂した日本初の本格的刊本英和辞典。953ページよりなる。1862年(文久2年)出版で、刊行部数は約200部。「袖珍」というのは、「袖に入れて携帯するのに便利である」という意味で、"pocket"に対応した語である。その形状から「枕辞書」とも呼ばれて珍重された。


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あまり見やすく無くて申し訳ないですが、750頁二列目、最下段、Slave.s 「奴隷」http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0586/bunko08_c0586_p0004.jpg


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さて、文久二年ときちんと書いてあります。

「当時は奴隷という用語がまだない時代ですが、」その当時というのは、泥憲和先生によると「 明治5年」

泥憲和先生は、江戸から幕末、明治における、様々な学問事情をご存知ないのか?

知っていて、あえてミスリードを誘ったのか、私にはわかりませんが、せめて今文庫で手に入る幕末から明治に生きた方々の本をお勧めいたします。

「福翁自伝」「幕末百話」「明治百話」まあ、三冊でも意外な事がわかります。

もう最初から、思い込みで「当時は奴隷という用語がまだない時代ですが」明治五年で、英語の翻訳がされていない、まあ泥憲和先生の自称のご経歴によると、大学には進学されていらっしゃらないようなので、論文の書き方どころか、高校のレポートすら、書いたことがないのですか?

黒船来航、いわゆるペリー提督が「サスケハナ号」以下、合計四隻で日本に、いわゆる砲艦外交に来たのは

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)それ以前から様々な、国々の軍艦が、日本に圧力をかけるべく、来訪していますが?

では、その時に何語で会談し、外交文書をどうやって翻訳したのでしょうか?
少しは、考えていただきたいと思います。